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ちょっとだけ国際人!になりたいな〜(日本)
エッセー執筆:フリーライター 志治 美世子

■第六回:オーバーホールの日々■
 

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オーバーホールの日々
  志治美世子
すでに12月は目の前である。
ソラさんの住むイラン暦では、クリスマスなんぞはどうなっているのであろうか?
イランの師走風景など、ぜひレポートしたいただきたい。

6月一杯で左手の脱臼のリハビリが終わり、7月からは無事テニスにも復帰した。
しかし、なぜかこの夏は暑さが身に堪えるな、とは思っていた。確かに・・・。
しかし怪我人から健康人に社会復帰し、まさかあっというまに病人の身へと転落し
ようとは、さすがに思ってもいなかった。
9月の後半から「あれれれ・・・?」と思うまもなくするするっと体の調子が悪くなり、
「血便が出ているな」と思ったときには、すでに腸の中は内視鏡のカメラも入らないほ
ど、炎症でただれきっていた。
9年前に初発した潰瘍性大腸炎の再発だった。このときには3ヶ月入院し、自宅療養
に半年くらいかけたっけ。
「入院する?」という主治医に
「したくない」と答えつつも、反抗は空しかった。
そして、私は10月のすべてを入院した病院のベッドで過ごす羽目になった。

11月の頭に退院したものの、入院期間の前半をほぼ絶食で過ごし、24時間点滴に
つながれて過ごした体がそうそうすぐに元に戻ってくれるわけではない。
とかなんとかいいつつ、退院して10日ほどで、2泊3日四国取材へ出かける。こわごわ・・・。
フリーの悲しさにて、いただけるお仕事をかろうじて動ける身で断るなどということ
があっていいわけがない。
それでなくとも入院中に1本連載仕事を失っているのだ。
とか、これもなんとかかんとかいいつつ、失ったのは「いつ止めてもいいや!」とい
うほとんど嫌気が差していた仕事であり、四国取材は経費のすべてを自腹でも出かけ
たいどうしても会いたい相手だった、ということなのだが・・・。

しかし、私は元気である。
病気でも元気だ。
一応表向きはお見舞い謝絶、ひっそりと入院していたのだが、それでも病室を訪れて
くれた何人かはみんな口をそろえて「なんだ、元気そうじゃない!」と言った。
9年前の初発のときにも、入院直後はけっこう危ない状態だったらしいのだが、本人
にはまったくその自覚はなかった。あとから「助からなかったかも・・・」という話
を聞いて、「人間って、いったいいつ『自分は死ぬんだ』って自覚するのだろう。
ちょっとその瞬間を味わってみたかったかな」なんて不謹慎なことを言って、周囲に
怒られたっけ。

私の仲良しのボーイフレンドに、医師がいる。
76歳の彼とは一緒に歌舞伎を見に行ったり、食事に行ったりとちょくちょくデートをする。
体の調子がだんだんと悪くなってきたときに、一々私の健康状態を気にしては医師としての
アドバイスをしようとする彼に向かって言った。
「いい? 私は自分の足で歩いて、ここまでやって来て今あなたと会っている。あなたは私
の検査データも知らなければ、主治医でもない。私の病気の状態は知りたければ教えるけれ
ど、あれこれ言うのは止めてくれる? どんなことになったって、絶対に『先生、お願いで
す。命だけは助けてください!』なんて泣きついたりしないから」
年上のボーイフレンドとは有り難いもので、こういう私の憎まれ口を「はいはい」と笑って
聞き流してくれるのが心地よい。
彼とは私の出席している連句会で仲良しになった。怖いもの知らずの私は知らなかったが、
連句協会の会長選に名前が挙がるほどの大長老である。私の連句の師匠・水野隆先生は元々
が詩人であり、連句に関する「式目」という七面倒くさいルールをほぼ意に介さない人なの
で、私の連句は発想頼みで作法知らず、行儀の悪いことはなはだしい。
川野蓼艸(かわの・りょうそう)といえば連句界で知らぬ者とてないこの長老は、旧仮名
遣いの日本語文法から連句の式目の細部にいたるまで、実によく私に教えてくれる非常に
素敵なボーイフレンドなのである。しかも4年後にはドイツ語で第九を歌うべく週に一度
のレッスンは欠かさず、謡の舞台も踏む。女性を褒めるのが実に上手い。天性がマメに出
来ているのだ。
こういう親切なボーイフレンドに向かって、「人の病気につべこべと口を挟むな!」とい
う私は、医師である蓼艸さんに言わせると「やっかいな患者だ・・・」ということになる。

ちなみに余談ではありますが、今年の夏は全国連句新庄大会で優秀賞をいただきました。
およそ資格とか受賞とかというものに縁のない私である。とても嬉しかった。

さて、気がつけば私は今年のほとんどを怪我人か病人として過ごしている。
「頭が悪い分だけ、厄年が遅れてやってきたんじゃないか」というほどのことだとも思えるが。
来年の夏、私は50歳になる。
40代最後の一年は、図らずもあっちこっちと修理しながら過ごす羽目にはなったが、一応
初のエッセイ本も出せたし、来年につながる単行本の仕事もある。大急ぎで書かなくてはな
らない企画書もある。愛媛取材の本がうまく売れてくれたら、取材したい別の企画も通しや
すくなるだろう。連句界にデビューも果たせたし。
さて、今年は私のとっていい年だったのか、はたまた悪い年だったのだろうか。答えは決まっている。
「そう悪いもんでもないさ!」
なのである。

プロフィール
志治美世子 フリーライター 
東京生まれ。一女の母。歴史、女性、医療、社会など各方面で執筆活動中。

趣味は舞台鑑賞。とくに歌舞伎、文楽には目がなく、チケット代捻出のため、
常に「稼ぐに追いつく貧乏なし」状態である。連句に親しみ、平成16年には
連中として参加した作品が、「国民文化祭 連句部門」「平成連句文芸賞」に入選。
平成17年には、全国連句新庄大会で優秀賞。

主な著書に『東京江戸謎解き散歩』廣済堂出版『信長の朝御飯、龍馬のお弁当』
『日本史雑学人物伝 大貧乏・大逆転』(ともに毎日新聞社)いずれも共著、などが
ある。

40代になってバレエとテニスを始めるも、生来の運痴のためテニスはまったく上達
せず、バレエは現在休業中である。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜2005年5月24日からブログを公開
 
『天にいたる波』フリーライターの風雅風狂日記
     
   http://blog.goo.ne.jp/miyoko-shiji

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜2005年4月15日発行 
『逆癒しの口紅ルージュ
志治美世子 著  社会評論社
 

人生に、勝ちも負けもあるものか!
「セカチュー」「冬ソナ」でメソメソするな!
自分の生き方に不安や焦燥感をもつ、
孤独な女性たちに読んで欲しい一冊。


本の紹介は、社会評論社のウェブページよりどうぞ。
   http://www.shahyo.com/1445.html
■第六回:泣きたい日■
 

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泣きたい日
  志治美世子

ある日、ふとした瞬間に、どうしようもなく泣きたくなることがある。
それは突然、本当に突然、体の奥の奥からどうしようもなく抑えがたいものとなって、
沸き上がってくるのだ。
ある時それは、チャイコフスキーのCDをかけながら、台所に立って洗い物をしてい
るときだった。メロディが「くるみ割り人形」の中の「花のワルツ」になったと思っ
た瞬間、小さな頃から飽きるほど聞き慣れたはずのこの調べの、そのあまりに甘やか
で柔らかく、包み込むようなその優しさが、たまらない切なさとなってこみあげ、私
は洗いかけの食器も流れる水道もそのままに、思わずその場にしゃがみ込み、そして
泣いた。どうして美しいということは、こんなにも悲しいのだろう。

ある日それは、風も光も心地よく、私は目的地に向かう時間を十分にとり、心と体を
内側から思いっきり開くように、ゆっくりと周囲の風景を楽しみながら歩いていると
きのことだった。
陽の光、しなやかな風、誰か知らない人の家の庭先に咲く花や、街路樹のつくる木洩
れ日たち。突然私には、これらのもののすべてが、私を生かそうとしている! 
そう感じられたのだ。
私を取りまくすべてのもの。すべての時間。それはただ行き違い、すれ違うだけの、
見知らぬ人の背中でしかなかったとしても、それさえもが、私に「生きていていいの
だ!」そう告げている。そう思った瞬間も、私はその場にうずくまり、そして泣いた。
世界はどうしてこんなにも優しいのか。

中学生だったある日。私は足の踏み場もないほど散らかった、そして明かりを消して
真っ暗な4畳半の部屋の中で、一人寝転がって闇の中で目を見開いていた。
二階からは、継母や父、そして妹や弟たちの楽しそうな話し声。時折たわいない話題
に笑い声があがれば、テレビの音がかき消される。ごく普通の家庭。ごく自然で当た
り前の日常の団らん。ただ当たり前でなかったのは、その家の団らんが、「私」とい
う存在を完璧に抹殺して成り立っていた、ということ。私は家族の居間に、足を踏み
入れることすら禁じられていた。
私はいた。その家に、確かに存在していた。
しかし誰一人、そのことを知ろうとする人間はいなかった。
私は息を殺し、誰にも見とがめられることのないように、こっそりとその家のかた
すみに生きていた。
私が病気で熱にうなされていても、虫歯が痛くて眠れない夜に苦しんでいても、セータ
ーがなくて寒さに震えていても、下着や靴下に不自由していても、誰もそんなことに思
いを馳せる人間はいなかった。真夜中、恐ろしい夢に目覚め、鳥肌たったまま二度と
眠りに戻ることができなかったときも、私を安心させてくれる、魔法の呪文はなかった。
「何でもない。こんなことは、何でもないことなんだ。私は平気。こんなことで、ちっ
とも傷ついたりしないんだから」
私は声にしないまま、自分にそう言い聞かせるようにつぶやきながら、そしてただ口を
大きく開け、のどの奥で荒い息をしながら、涙すら流さずに泣き続けていた。

 18歳になったその日、高校を中退しすでに家を出て生活していた私は、あてもなく道
を歩いていた。無性に寂しく、寂しさはまるで心と体の内部から私を食いちぎらんばか
りの凶暴さで、私を引き裂こうとしていた。
 どうして生きていることは、ただそれだけでこんなにも苦しいのか。
 私が悪い。
私が馬鹿だ。
私が、私の存在自体が許されないものなのだ。
私は泣きながら歩いていた。それから歩くこともできず、道端にしゃがみ込んでただ泣
き続けた。私が泣いていることを知っている人間は、この世にただの一人もいなかった。
きっとこのままこの場所で私が死んでしまっても、突然誰かにどこか知らないところに
連れ去られてしまっても、誰も知らないままなんだろうな。私が生きていることを気に
かけてくれる、そんな人間はどこにもいないんだ。その事実が、無性に悲しかった。

山のように抱えてきた悲しみや寂しさは、果てしなく私を取り巻く永遠の連鎖だった。
頭をかきむしり、畳の上を転げ周り、うめき声を上げながら「お願いです、なんでも
します、だからこの今の苦しみから私を救い上げて」
だれにとも知れず、そう祈った。

あれらの日々にいた私は、遠い昔のものなのか? あれはすでに過ぎ去ってしまった、
遥かな痛みにすぎないのか?
いいえ、そうではない。あれは、あの日の私は、今も私の中に、少しも色あせることな
く焼き付けられている。

今も私は、時折突然泣きだすことがある。
私をがんじがらめにしていた永遠の孤独の連鎖が、自分の中にだけあるものだった、と
いうことに気づくことができた不思議さに。
私のことを何の疑問もなく大切なのだと信じている、その存在への驚きに。
そして、あの日の寂しかった私を、心からいとおしく思い、強く抱きしめてあげること
ができる、その自分自身の奇跡に、私は涙を流してしまうのだ。
たったこれだけのことを知るために、私は私自身の人生の大半を費やさねばならなかっ
た。
後悔などはない。
それでよかったのだ。
これが私の、生きているという意味なのだと、そう信じるこhahyo.com/1445.html

■第五回:手術の日、その周辺で■
 

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手術の日、その周辺で
  志治美世子
 4月18日、骨折だと思い込み、三週間放置したドアに挟まれた左手親指のため、近所の
整形外科医を受診した。結果は脱臼がすでに固まっている、というもの。区内のhandの
専門医のいる総合病院を紹介された。
 実は近所のこの医師には、「何のひとことの前置きもなく、いきなり整復された時、
負傷を放置したことに対する懲罰的な意識があった」「言葉に侮蔑的な響きがあった」
という印象を受け、「確かに私が悪い。しかし医師としてそのやり方はフェアでは
ないのではないの?」と感じていたので、これは紹介された先の医師にも、それ相当
の扱いを受けるであろうことは覚悟していた。

一週間後(紹介された医師が学会で休診だったため)に初診を受けたとき、「機能障
害が残るリスクって、どれくらいのものでしょうね」「さあ、それは診てみないと分
からないよね」「そうですよね」などという会話を交わしつつ、「脱臼した部分にど
れくらいの余裕があるか知りたいから」と、指の根本に麻酔を打って、レントゲン
を見ながらの再度の整復を試みることになった。

「う?ん、見事にはずれたまんまで固まってるよね」
「こういうのって、患者の自己責任っていうんですよね」
 と、私が言ったとたん、その瞬間にふわっとセンセイの態度が驚くほど和らいだの
が伝わった。
「最初に機能障害のことを言い出したから、切り口上で問いつめられているのかと思っ
たよ」
「え?!違いますよ。選択肢は手術しかないはずだし、事態は機能障害が残っても仕方
がない、って聞いてたから、そういうもんだと思ってただけです」
 紹介状を書いてくれた医師は、レントゲン写真を見たのみでごく当然のように「機能
障害」という言葉を口にしたので、私にとってそれはもう避けようのない事実のように
感じられていたからだった。
「なんだ、そうだったの。診療もしないうちから後遺症のこと聞いた患者なんて、初
めてだよ」
 でも何故か、このあたりから猛然とセンセイが私の治療に積極的になってきた(よ
うに感じられた)。もちろん、気のせいかも知れないが・・・。
 そんな感じで会話を交わしつつ、脱臼と切れているであろう腱の説明を聞きつつ、仕
事は何してるの、なんて世間話の無駄口も叩きつつ、再び外来の診療室へ入る。

「手術自体は割にありふれた難しいものではない、って聞いてますが」
「ここまで放っておく人なんてまずいないから、十分に難しい手術です!」
「自分でここまでにしておいて、とても言えた義理ではないんですが、できれば早めに
手術してほしいんですが・・・」
「そうだね。連休前にしておきたいね」
 図を書いての丁寧な説明を受け、大型連休前で手術の予定がびっしり入っているにも
関わらず2日後の手術が決まった。
「局部麻酔だから、手術中は全部説明しながら進めるから」
の言葉に、実は内心(ホントはあんまり聞きたくないかも・・・)とも思った私でした。

 帰宅後は、病院のホームページから、総務気付で丁寧なインフォームドコンセントを
して頂いたことと、早々に手術していただけるお礼のメールを打とうと考えた。
 なにしろ、お会いしてから手術までの時間がなかったことと、少しでも良好な関係を築
いておきたかったこともあった。瞬間、見え透いた小細工と思われないかな、との心配が
頭をよぎったが、何、人間素直な気持ちが大事だ、と気を取り直して送信をクリック!
 セカンドオピニオンは、時間的な問題と大型連休前であることの二つの事情から、選
択肢として除外した。

 その日はすでに4件の手術が決まっていたにもかかわらず、比較的簡単だという手術2件
の後、午後イチで私の手術を入れていただいた。手術室での私の第一声、
「センセイ、お昼ごはんはちゃんと食べた? 休憩は?」
「ちゃんと食べたよ。休憩も10分とった」
 血圧を測りながら、「私の血圧より、センセイの休憩時間の少ない方が心配だよ」
「大丈夫だよ。外来の時なんか昼抜きで午後の5時頃までぶっ続け、なんてしょっちゅ
うだから」「まるで野戦病院みたい」「ホント、そんな感じだね」「でも外来と手術じゃ、
話が違うでしょ」 などといいながら、局部麻酔で手術へと突入。左手は見えないものの、
右上部のレントゲン画面はよく見える。
 途中、何度も麻酔が弱まるのが分かる。
「センセイ、なにげに痛いかも」「そうか、もうちょっと麻酔を追加しようか」
ウィーンというドリル上の音とともに針金が骨に入る。
「センセイ、これはマジ痛い」「おっと、ごめんね」「違うよ、そうじゃなくて情報提供
だから」(もしかしたら、ドリルの音が痛みを増幅させたかも知れないが・・・)
「これから腱をつなぐけど、うまくつながってくれるといいんだけどなぁ。でもこればっ
かりはやってみないと分からないから・・・。」
「まあ人間の体だから、何でもありだよね」
「本当にそうなんだよね」
止血している親指の根本の痛みがひどくなる。
「麻酔が切れてきたみたい」「じゃあ、もう少し追加する。麻酔の効き、よくないね」
「飲んべだからかな」「そうなんだ、きっとだからだね」
 途中、「自分の指の中、見てみたい?」「やだ、見たくない」「なんだ、フリーライ
ターーなんだろ(笑)」「だって怖いもん」(見て、余計痛くなっちゃったら、どうす
んだよ!)

 約2時間半ほどで手術は無事終了。
手術台に横たわったまま、しばしおしゃべりをする。
「文章が書けるって、いいね。僕なんか形の決まった論文の文章ですら、この文なんか
変かな、なんて思うんだ」「だったらいっそ、話し言葉で書いてみたら?」
「う?ん、それもいいかも・・・」医師とのこんな無駄話も、なかなかいいものだ。
「どんなに一生懸命やってても、やってなくても何にもかわんないんだから、いやになっ
ちゃうよ。手術中に患者が火傷したって、テレビの番組で『こんなリスクがあるなら、手
術なんかしませんでしたよね』って患者に詰め寄っているのを見たときには、本当に医者
を辞めたくなった」「医療ミスと医療事故が一緒くたにされるのって、悲しいよね。でも、
私だってゴーストライターでどんなにがんばって本書いたって、出版社の上層部なんてだ
れが書いたか知りもしないんだよ」「そうか、そういうこともあるんだね」
 その後自分にやってくるはずの激痛を知らずして、和やかな時間が流れる。
「私、いい患者だった?」
「うん、いい患者だったよ」
(これはかなり信憑性に乏しい。ほとんど無理矢理言わせました(^_^;))

 手術台をおりる前に、
「抗生物質と炎症止めと痛み止め出すから。家に帰って痛くなったら、座薬使ってね」
「やだ! 日帰り手術なのに家で痛くなったら不安だから、痛み止めの座薬は麻酔が切れ
る前に病院で入れて欲しい」「じゃあ、一階で入れてもらえるようにしておくよ」
 だが、実際の手術当日の痛みは、座薬ごときで解消するような生やさしいものではなか
ったのであるが・・・。
 とにかく看護師さんに着替えを手伝ってもらい、座薬も入れてもらって(右足肉離れの
ための)松葉杖をついて帰宅することになった。
 でも、ちょっと待って! 麻酔の効きは刻々と薄れ、左手は徐々に激痛となる。手術だ
ってけっこうきつかった。そこで私は、ハタ!と考えた。
「今日、このままこれだけで一日を終わるのは、絶対イヤだ! せめて何か一つ、いい思
いをしなくちゃ、気が済まない!」
そう決心した私は、よろよろと松葉杖にすがり、病院から徒歩5分の場所にある、かねて
より大好きなおいしいお蕎麦屋に15分かけてたどり着き、季節限定蕎麦の新芽入り「若葉
蕎麦」を食べて帰ったのでした。
痛いは、痛い。しかし、おいしいのも、オイシイのである。この辺の私の欲の深さは、も
しかしたら天下一品なのではないだろうか。

 翌日(28日)、消毒のため再び外来へ。センセイはhandが専門ということもあって、近
隣地域からの紹介状の患者がとても多い。結果、電光掲示板の受付番号は、ほかの医師と
比べて遅々として進まない。
 「昨日はありがとうございました」と3時間半待ちの後、お蕎麦を食べて帰った話をする
と、「普通の人はすぐにタクシーで真っ直ぐ帰るんだけどね」とあきれ顔。包帯の取り替
えも入れて3分の診察が終了するその席を立ち際に、ふと思いついて
「センセイ、小海線って知ってる?」
 小淵沢や清里を通る小海線は、単線のためにほぼ一駅一駅で対向通過電車と待ち合わせ
る、とんでもない鈍行列車なのです。
「知ってるよ」
「センセイの外来って、まるで小海線みたいだね」
 そこでかのセンセイは、にやりと笑い、
「なんとなく、分かるような気がするよ」
 と、そう答えたのでありました。
  
■第四回:一病息災、百災百彩■
 

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一病息災、百災百彩
  志治美世子


 その日銀座に出かけるために、午後六時に家を出ようと心づもりしていた四時半すぎ、
編集者宛に最近出したエッセイの校正原本を送ろうと郵便局に向かったと思し召せ。
 歩道の端の10センチほどの段差に右足を乗せた瞬間、そのふくらはぎにピキリと鋭い痛みが走った。
 しばらく休んで痛みが和らぐのを待ち、ようようと郵便局まで行って家まで帰ってきたものの、足
は平常状態に戻る様子はない。右足は一足一足をそっと出し、左足を並べる。つまり右足を後ろに引
いた状態で、どうしてもその足をそのまま蹴り上げることができないのだ。必然的に、歩き方はぴょ
こたん歩きとなる。
普段の私なら、「ええい、湿布でもしておけば何とか収まるだろう」と思うはずだ。しかしその時の
私の左手の親指には、真っ白い包帯が巻かれていたのである。

ドアに激しく指を挟み、腫れあがり曲がらなくなった状態を骨折だと思い込んで、「そのうちくっつ
くだろう」と高をくくって放っておいたままの三週間。
激痛に耐えながら私が考えた理屈とは、
「骨折でもヒビでもないなら、自然に治るであろう。骨折かヒビだったら、時間が経てばくっつくは
ずだ。イラクでもスマトラでも、外傷にとって致命的なのは感染による傷口の悪化なのだから、外傷
のみであれば何ほどの問題でもないだろう。
昔の人は骨折など、板ッ切れに縛りつけてくっつけていたのだし、少しくらい骨が曲がってくっつい
たって、『小さい頃骨折したところが、曲がっちゃって』なんて話はそこここで聞くが、皆さんそれ
ほど人生の大勢に影響は出ていないじゃないか」
というもので、私はそれで周囲の懸念を封じ込めてしまったのだった。

しかし、結局左手の親指は骨折ではなく脱臼で、気が付いたときには脱臼したまま固まってしまって
いた。あまりに長引く指の異常に、ある日さすがの夫も「今日中に必ず整形外科医に行ってレントゲ
ンを撮ってくること」と珍しく厳しい面もちで言い渡し、仕事に出かけていった。
レントゲンを診た整形外科医は絶句。
「どうしてこの状態で、ここまできたの?」
というわけで、今は手術待ちの状態なのである。
そこで私は、どうやら過去の被虐待体験から「自分が重大な苦痛を感じると、反射的にそれを無視し、
なかったことにしてしまう傾向がある」という、かなり自分にとって貴重な情報をこの体験から得る
ことができたのであった。
 
 実はその後、ダメもとでと紹介された接骨医に、入るものなら引っ張って脱臼を入れてもらおうと
はしたのだ。わざわざ国立まで出かけて。
 助手に肘を押さえさせ、親指にはすべらないようにタオルを巻き、
「それでは・・・」といって二人がかりで双方向に引っ張ること、う?ん!!! 全身から汗が噴き出
すほどの痛み! こらえる私! 必死で引っ張る接骨医!「うう?ん、い、痛くないですかぁ?」
の声に思わずどっとずっこけて、吹き出した。 
「痛くないわきゃあ、ないでしょう!」
 一気に全身から力が抜けて、爆笑してしまったのだった。
・・・いい人なんだなぁ、このヒト・・・。って、聞くか? 
フツウ、この状態で「痛くないですかぁ?」などと、ねぇ。

 紹介状をもらって手術をする予定の病院を受診するも、目当ての医師は学会にて来週まで不在。その
時点で時間はまだ朝の九時だったから、そのままHANDの治療では定評があると聞いた医師のいる日大駿
河大病院に、紹介状なしで飛び込んでみるも、こちらも来週までは一般診療はなし。
 結局その日の昼間では何もかもが無駄足で、気分転換に帰りの電車はJR阿佐ヶ谷駅で降り、約40分ほ
どの道のりを歩いて帰った、さらなるアクシデントはその翌日のことであったのでした。

その日は私の参加している医療系MLの主宰者で、九州の大学に助教授として勤務している友人の医師が、
シンポジウムで講演するために上京する機会を得て、その親睦会があるのだった。
 飲み会の会場は、これも私の友人の小さな店を借りきりにすることになっていて、ある参加者には、
私が行かないとほかのすべての人と初対面になるのではないか、という心配もあった。
実際には「あら、どうしてここに?」てなもんで、世間は思ったよりずっと狭かったのだけれど。

 出かける時間までには、あと1時間ほどの余裕しかない。
 しかし、万が一にもここでこの足の痛みを悪化させでもしようものなら、左手の前例もあることなが
ら、周囲から非難の集中砲火はまぬがれない。
 だが、とりあえず銀座にはどうしても駆けつけなくてはならない。親しい整体師に頼み込んで、急患
の飛び込みでテーピングをお願いした。その診断は、
「これは筋断裂でしょ。要するに肉離れです。銀座? とんでもない。どうしても? じゃあ、タクシ
ー使ってね。お酒って、バカいってないで、みんなに分からないようにって、真っ赤なテープ巻いてあ
げるよ」
 という状況下で、とにかくぴょこたんぴょこたんと地下鉄に乗り、7時の待ち合わせには無事間にあ
わせることができた。
 お酒はちびちび、会話はガハハ。薬学部のかわいい女学生、理想に燃えた医大生、医療ジャーナリス
トに、現役医師、etc,etc。
 名残は尽きなかったが、さて、この辺でお開きに、というところで、外に出て歩き始めたが、どうや
ったってみんなのペースについては歩けない。心配して添い歩きしてくれる人たちにも申し訳なく、あ
えなく分不相応のタクシー帰宅となったのでありました。
 
 で、翌日近所の接骨医に事情を話すと、快く松葉杖を貸してもらうことができた。これがまたなんと
調子がいことか。なんていったって、歩いても痛くないのだから。
「いいじゃん、いけるじゃん!」と軽?くはしゃいでいたら、
「あくまで必要最低限で使うこと。いい気になって歩き回ることなどもってのほか!」と白洲のお裁き
である。
しかし、左手の包帯と右足を支える松葉杖で立つ、情けない自分をつくづく思えば、その姿をみた100人
中100人が、まず「このバカ、どんなドジを踏んだものやら」と考えるはずだ。いやよしんば言葉に出さ
なくとも、視線がそう語ることだろう。
で、私は心の中で
「違うんですよ?! 手と足のケガは、それぞれが関係ないまったく別のモノなんです・・・」
と言い訳しながら、情けない微笑みを浮かべるのであろう。
テニスに出かける夫が、「酔っぱらって転んだ、ってみんなに言っておくから」と笑いながら言ったと
きには、
「た、頼むからそれだけはやめて! みんな絶対に即信じるから。後の誤解を解くのが大変だ?!」
と叫んだ。
悪意ある流言は良質な真実を駆逐するのは、世の中の習いである。話はよりおもしろい方に流れていく。
ましてや私の場合、酒の上での失敗など「さもありなん、それ見たことか」と聞いた側があっさり腑に
落としてしまうことは、火を見るよりも明らかである。

その後、今後の身動きならぬ日々のために夫に車を出してもらい図書館へ行く。
来るべき療養の日々に備え、限度数いっぱいに本を借りるも、後ろに従う荷物持ちの爺やは我が夫。
障害者用スペースに堂々と駐車するのも初めての経験で、ちょっとしたVIP気分のワタクシなのでした。

 さて、月曜から脱臼の治療にはどうやって通いましょう。紹介状の病院は、バスに乗って、電車に乗
って行かなければならない。
 ちなみに手術に関するおおよその予想は「手術日帰り、全治四ヶ月、機能障害の恐れあり」というも
のだ。
 でも、長期休会の報告をするためにテニススクールに出向いた折りに、事情を話したコーチに「左手
の親指に機能障害が残ったら、新しいバックハンドの方法、一緒に考えてね」と言うと、にっこりきっ
ぱりと「大丈夫。だから、がんばって戻ってきてね」。
 私のバックハンドは両手打ちなのでした。
 そういえば二ヶ月前にはサーブでラケットを振り下ろした瞬間に首筋を痛めたし、それが治ったと思
ったら、その後にはロブを受け損ねて顔面で受け眼鏡割ったし、左手の親指を事故ったのは、その翌週
だった。なにげに上から順番に来てるのですね。
 これで終わりか、はたまたまだこれからFOOTが待っているのか。

 でも、こんなにいっぺんにいろんなことが降ってきて、だからその次にはどんな楽しいことが待って
いるんだろう、と何故か何の根拠もなくワクワクしている私。(「私もいろんなことが重なったことあ
るけど、いいことなんて何にもこなかったよ」、との声もあり)
本当に、次にはいったいどんなことが起きるのだろう。
でも、これだから人間生きてるのって、おもしろくってやめられないのさ。ね!

■第三回:中央線の一日■
 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
中央線の一日
                                  志治美世子
その土曜日、ドアに挟んで骨折した左手の親指の治療のために、東中野の整体院を訪ねた。
午前11時の予約で、治療が終わったのは11時半だった。
この季節の、東中野の駅から中野に向かう土手の景色は素晴らしい。土手の上に咲き誇る満
開の桜の下には、菜の花が黄色い絨毯のように斜面を埋めつくしているのだ。私にとって、
わざわざ足を運んででも見たい、この季節の場所の一つである。
荻窪駅で下車し、ちょっとした用を足し、ランチのある喫茶店で昼食を済ませて、そのまま
そこで食後のコーヒーを飲みながら、読みかけの本を読了した。著者は友人のそのまた友人
で、現役の医師、なおかつ元プロのキックボクサーだ。
文章ははっきりといえば、そこそこ上手な作文に、さらに毛の生えた程度だったが、あまり
の彼の真面目さとけなげさに、気持ちを強く揺さぶられた。ちょっぴり鬱陶しくもあったが。
実は友人に誘われて、一度だけ彼のキックボクシングの試合を観戦したことがある。結果は
判定負けだったが、人と人とが激しく殴り合い、赤く腫れあがった皮膚がみみず腫れとなっ
たとおもいきや、みるみる青黒く膨れあがっていくことを目の当たりにし、私は少なからず
ショックを受けた。見ているだけで、脳しんとうをおこしそうな気分だった。
その本を読みながら、私が観た試合の後で、彼が引退を決意したことを知った。
私は少し泣いて、その本を読み終えた。
「引退試合、観たかった、かもしれない」
そう思った。
再び中央線に乗り、今度は国分寺で下車した。この駅にある、大きな古本屋を覗こうと思っ
たのだ。南口から坂道を下ったその本屋でしばらく時間をつぶし、時計を見ると2時だった。
西国分寺で自宅をギャラリーとし、写真展を開いている知人の、その日はその初日だった。
しかし、そのギャラリーで落ち合おうと約束している友人との待ち合わせは、3時。まだち
ょうど1時間ある。私はちょっと迷いながら、思い切って西武線の券売機を探し、そこで切
符を買った。
国分寺から東村山に向けた一つめに、恋ヶ窪という駅がある。私がこの町を出たのは14歳
の時のことで、それからこの場所を訪れたのは、その日が初めてのことだった。
小学校3年の2学期に引っ越してきて、中学校の2年生で再び転校していくまでを、ここで暮
らした。五小と呼ばれていたこの地区の公立小学校は、私にとって4つめの小学校だった。
父の再婚により、ようやく預けられていた親類の家から、私は引き取られたのだった。
しかし、夢にまで見た父と継母による暮らしは、私が思い描いていたものとはほど遠いもの
だった。

小学生の私は、継母が産んだ妹たちだけに与えられるヤクルトを飲む姿を、毎日見て育った。
それは、のどが鳴るほどうらやましいものだった。
朝は毎日一人で起きだし、家族の眠る家を出て学校に行った。集団登校の集合にしばしば遅
れれば、みんなの白い視線を浴びる。幼い妹が教科書に落書きし、楽しげにノートを破る。
継母は「出しっぱなしが悪いのよ。ほら、もっと破っちゃいなさい」
と笑った。
忘れ物が多く、宿題をしてこない転校生。私は成績の悪い問題児であり、クラスの鼻つまみ
者だった。学校から帰ってきても、誰もいない家の玄関の鍵がかけられたまま、などという
ことは、しょっちゅうだった。私はそのたびに、家の小さな庭に面した縁側や、近所の市役
所のロビーで時間をつぶした。保護者会はおろか、卒業式や中学の入学式でさえ、私のため
に出席してくれる家族はいなかった。

かつて私が住んでいた場所には、アパートが建っていた。小学校4年生の時に、顔と頭を咬ま
れたシェパード犬が飼われていた牛乳屋は、スナックになっていた。小学校から中学にかけて
アルバイトをさせてもらっていた花屋があったマーケットあたりは、テニスコートになってい
た。小学校の同級生が済んでいた家に、まだそのままの表札がかけられているのを見つけた。

私はゆっくりと周辺を見回しながら、道を歩いた。ここは雑木林だった。ここは小さな工場だ
った。ここは、電気屋さん、ここは・・・。
やがて左に曲がれば、かつての小学校にいたる場所まで来た。どうしようか、曲がってみよう
か。そして私はその瞬間、このまま真っ直ぐ行った道の左側に、かつてあった花屋さんのこと
を思った。そうだ、私はその花屋を確かめるために、ここに来たかったのだ。長い間、ずっと、
ずっとそう思ってきた、そのことに気が付いたのだった。

そのクラスメートは、真理ちゃんといった。
勉強ができなくて、何もかもが人並みではなかった。私は彼女をいじめたのだ。意地悪をし、
いつも傷つけていた。
ある日などは、彼女がきちんと給食当番の役目を果たさないと、クラスメートたちと彼女の家
に抗議に行ったことさえあった。その真理ちゃんの家が、花屋だった。その時の、真理ちゃん
の母親の悲しそうな、困惑しきった顔を思い出す。
真理ちゃんの花屋は、今もあるのだろうか。もしかしたら、運良く彼女の姿をかいま見ること
ができるかもしれない。私は迷った。そして、次の瞬間思った。
バカなことは止めよう・・・。
今、真理ちゃんの姿を確かめて、いったい何になるのだろう。あの時はごめんなさいと、謝り
でもするつもりなのか。それでいったい、誰の気がどう済むというのか。
消えはしないのだ、私のしたことは。真理ちゃんの記憶の中の私がどのような人間であっても、
それはそれで私という人間の真実の一面なのだ。
真理ちゃんと同じような同級生が、もう一人いた。吉野さんという女の子だった。
小学校の階段の踊り場で、お漏らしをして泣いていた吉野さん。その時も私はさも汚らしそう
な顔をして、彼女を嘲笑したのだった。家では長い間おねしょをしていた自分だったのに。
私は道を左に折れ、小学校に向かう道をたどった。
付近にはまだ武蔵野の畑が広がっていた。人影のない道に、春の日は惜しみなく降り注いでいた。
ごめんね、ごめんね、ごめんなさい・・・。
アスファルトに移った自分の影がゆるみ、じわりとにじんで盛り上がり、流れていった。

あのころよく遊んだ、小さな神社を見つけた。幹が切られてはいたが、その椿の木はあのころ
のままここに立ち続けているのだろう。隣には小さな公園ができていた。満開の桜の花びらが
風に舞っていた。「○○ピアノ教室」
消えかかった文字が、錆び付いた看板に読んでとれた。仲良しだった葉子ちゃんの家だ。
気が弱くておとなしかった葉子ちゃん。きっと仲良しだったと思っていたのは、私だけだった
のだろう。きっと葉子ちゃんは、私が嫌いだったはずだ。私は葉子ちゃんのおとなしいことを
いいことに、彼女を振り回すだけ振り回していたのだ。逃れようにも逃れようのない、葉子ち
ゃんのつらかったであろう日々。

でも葉子ちゃん、ありがとう。あなたのおかげで、あの時の私は独りぼっちではなかったのだ
から。あなたが記憶の奥の私を憎むことで、あなたの痛みから立ちあがってくれているといい
のだけれど。本当に、そうしてくれていればいいのだけれど。

そろそろ、時間だ。
私は西国分寺の方角に足を向け、そして歩き始めた。


■第二回: 金 森 穣 体 験 ■
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  先日、友人と観たダンサー、金森穣の公演があまりにも素晴らしかったので、
おもわずファンレターを書いてしまいました。
 今回はそのファンレターを皆さんに読んでいただこうと思います。
■金森嬢:1974年生まれ。ダンサー、振付師として日本、世界で活躍中
http://www.jokanamori.com/


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金 森 穣 体 験
念願だった金森穣の公演に、ようやく出会うことができた。伝わってくる評判を聞き、
「観たい」と思いつつ時が過ぎていく中で、気が付いたら新潟の人となっていたため
に、彼の公演に出かける機会がなかなか得られないままでいたのだ。

まったくの偶然だったのだが、その公演の前夜、私は一人で今は亡きジョルジュ・ド
ンの踊るアダージェットのビデオを観ていた。
友人が咽頭がん4期を告知されたという電話を受けて、ひどく動揺していた。
彼女の残された生存期間をおもんばかったわけではない。彼女の生が今後10年あるの
か、15年なのか、あるいは1年なのか。そんなことを斟酌する必要などはない。ただ、
独身で、編集者で、故郷にはすでに親も兄弟も残されてはいない彼女が、たった一人
でがんの最終期を告知された。そのことに私はひどく動揺したのだ。その夜、彼女が
過ごしたであろう眠れない時間を思った。
この後彼女が過ごす時間、生きる生を、「何もできない自分」が、ただ友人であるこ
ととして引き受けきることができるのか。彼女を目前にして、一瞬も目を背けること
なく、たじろがずにいられるのだろうか。どんな時であれいぎたなく取り乱したりせ
ず、彼女の側に立ち続けることができるのだろうか。
私の掛け声だけは勇ましくとも、いたって頼りない覚悟を後押ししてもらうために、
ドンのアダージェットが必要だった。

公演の幕が開き、私の目はステージに吸い込まれるように張り付いたまま、固まった。
これは何かの符号なのか?
固まった視線の奥から、涙があふれてどこまでも落ち続けた。身体が震えだした。私
は思わず同行の友人の手を強くつかみ、その震えに耐えた。
存在は関係であり、希薄と濃厚が交互に重ね塗られ続けた。個はどこまでも無限に有
限だった。安定と不安定、求め合い、求め合い、求め合う相反。ミクロからマクロへ、
またマクロからミクロへと視界は自在に誘導され、生の中に死があり、死そのものを
生として生き、ウィルスは増殖して宇宙の星雲となり、永遠へと流れていった。
私は昨夜の友人の告知が、今日の金森穣の公演のためにあらかじめ仕組まれ、用意さ
れていた出来事だったのではないか、と疑ったのだ。

金森穣は、私という個体の曖昧さをどこまでも暴露する。胸の奥の、痛くて苦しい場
所を鷲掴みにする。さあ、お前はどう生きているのだ、と、この抽象が受け止められ
るのか、と、私を嘲笑する。これがオレの表現なのだ、と、お前は何を生きるのか、
と。
男女はどこまでも素材化され、それは私を挑発し続ける。
さあ、どうだ。お前はどうなのだ。そのだらけきった、張りつめも洞察もない身が、
情けなくはないのか、と責め立てる。
その高慢とも思える自信が、私を打ちのめす。
まさか、と一瞬耳を疑ったのは、アダージェットそのものを耳がとらえた時だった。
目の前で老婆が描くまったく別のアダージェットが、いつの間にかドンのそれに重なっ
ていた。目ではステージを追いつつ、頭の中ではドンが踊っていた。
二つのアダージェットは二羽の蝶々がまるでもつれ合いながら飛ぶように、私の中で
重なりあい、一つの作品として溶け合っていた。
それはまるで降りしきる雪の中、その夜空の向こうに打ち上げられた花火のようだっ
た。
降りしきる雪はドンだった。その和紙のように透ける向こうで、もう一つのアダージ
ェットが踊られている。
私は雪の夜に打ち上げられる、はるかなる花火を見つめ続けていた。

二幕目の幕が下りたとき、しばらく呼吸を止めていた私は、ようやく深く大きなため
息をついた。
「まだ、あるの? これ以上、何を見せようって言うのだろう」
だが、その思いはいたって優しく、そして柔らかく裏切られた。
コンテンポラリーダンスの楽しさを、十分に堪能させるよう、三幕目は配慮されたも
のだったから。「よかった。これ以上何かされたら、どうなるかと思った」

アフタートークに興味がなかったわけではない。だが、私はもう十分だった。
胸の奥の痛みを抱えたまま、会場を後にしたかった。
つい最近、ある高校生から自分がゲイであることが知られるのを恐れている、とうち
明けられた。カミングアウトを恐れる彼にも、「金森穣を観な!」そういってやりた
い、と思った。
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プロフィール
志治美世子 フリーライター 東京生まれ。一女の母。歴史、女性、医療、社会など各方面で執筆活動中。
趣味は舞台鑑賞。とくに歌舞伎、文楽には目がなく、チケット代捻出のため、常に「稼ぐに追いつく貧乏
なし」状態である。連句に親しみ、平成16年には連中として参加した作品が、「国民文化祭 連句部門」
「平成連句文芸賞」に入選。主な著書に『東京江戸謎解き散歩』廣済堂出版『信長の朝御飯、龍馬のお弁
当』『日本史雑学人物伝 大貧乏・大逆転』(ともに毎日新聞社)いずれも共著、などがある。
40代になってバレエとテニスを始めるも、生来の運痴のためテニスはまったく上達せず、バレエは現在
休業中である。

■第一回:長野県上田市『無言館』■
  
こんにちは。はじめまして。
私は東京在住のフリーライター、志治美世子と申します。
このソラさんのホームページでは、日本文化や各地の歴史うんちくなどを紹介させ
ていただこう、と思っております。
皆さんのなかからも、「自分が生まれた土地、育った町について知りたい」「両親
や祖父母の育った地方について知りたい」などのリクエストがありましたら、どん
どんメールをくださいね。歴史うんちくを得意とするライターとしして、また日本
の何でも屋フリーライターの端くれとして、腕によりをかけてご案内させていただ
きたいと思います。
今回はソラさんの出身地である長野県のなかから、私の大好きな上田市の無言館
についてご紹介したいと思います。


静かにたたずむ山頂の美術館「無言館」
ダンさんとカミさんのページへ:無言館の情報   

無 言 館 正 面
写真提供:ダンさんとカミさん

上田駅から車でほぼ30分。小高い山道を登りはてたところに、「無言館」は建っている。 戦没した画学生の絵ばかりを集めた小さな美術館だ。

実はこの場所を訪れるまで、私は無名の画学生たちの絵がどれほどのものであるか、 半信半疑のままであった。現代社会のなかで、私たちは美術館に足を運ぶことによっ て、古今の巨匠たちの作品をいともたやすく目にすることができる。芸術の世界で大 成する難しさを容易に想像できるからこそ、この小さな美術館に心惹かれ、訪れるこ とを強く願いながらも、まだ若い、そしておそらく「好き」であることと、いくばく かの「才能の芽」のみを持ち合わせていた若者たちの絵が、自分に対して何をどれほ ど与えてくれるのか、危うんでもいたのだ。

そのあたかも墓標のような佇まいにふさわしく、館内は暗く、そして静かだった。一 枚、また一枚と、それぞれの絵の前にゆっくり足を進めるうちに、何か、どうしよう もない切なさが自分の中にこみ上げてくることに、私は驚いた。

そこには故郷の風慶があった。母や妹や、家族の姿があった。出征前のまだ若い青年 の、新妻の裸体画があった。 彼はあと幾日かで後に残して逝かねばならないその妻の姿を、どのような思いでキャ ンバスに写し取っていったのだろうか。その髪をかき上げ、首筋に唇を這わせるよう に、絵筆を走らせたのではないだろうか。抱きしめても抱きしめても尽きることのな い愛おしさを絵筆に含ませ、その胸を、腕をなぞったのだろうか。

損傷の激しいものもあった。すべて無名の作品ばかりである。その傷みさえもが、愛 しいものたちを残し、戦場に赴かねばならなかった青年らの声なき慟哭となって見る 心に響く。

涙などすでに、拭いようもなかった。

ある作品には、その青年が出征の日のその朝の、出発の時間が来ても、外には出征を 見送るために近所の人たちが、彼の姿を玄関の外で待ち受けていながらも、それでも まだ絵筆を置くことができずに描き続けていた、との解説が添えられていた。彼を送 り出すための軍歌の歌声や、人々のざわめきが作品から聞こえてくる。

私にはようやくその感動の正体を理解することができた。ここを訪れる人々は、描か れている作品を見るのではなく、描いている青年のその視線をなぞり、その心の中に ある思いをこそ見るのだ。そこにある作品はすべて、若い命の存在そのものだった。

無言館を出ると、そとはまばゆいばかりの夏の陽があふれていた。 私はこの場所が墓標であることの意味をかみしめ、山頂から広がる景色を見つめてい た。




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